火. 11月 26th, 2024

①から続く

嘉南の人々は、嘉南大圳(かなんたいしゅう)の完成後、八田与一の功績を称えて銅像を建てました。

銅像は、ダムの北側に作業服の姿で腰を下ろし、片膝を立ててダムを見下ろしているような格好をしています。

銅像の後ろには、八田与一のお墓があります。

八田与一の銅像と墓

八田与一は日本軍からフィリピンの灌漑調査に行くよう命令され、外代樹(とよき)夫人と8人の子供を残して、1942年(昭和17年)5月5日、広島県の宇品港から大洋丸に乗り込みました。

しかし、5月8日、長崎県五島列島の近くを通っている時にアメリカの潜水艦の攻撃を受けて大洋丸は沈没、八田与一はこの世を去りました。

銅像の後ろにあるお墓は、当時の台湾総督府と、烏山頭ダムを管理している組織、嘉南大圳組合が作りました。

戦争が終わり、日本人は全員日本へ引き揚げることになりましたが、外代樹夫人はご主人のお墓から離れるのがつらく、1945年9月1日の早朝、「お父さんの後を追いかける」という内容の遺書を長女宛てに書いて、家を出ました。

長女は目が覚めてすぐにお母さんが書いた遺書を見つけ、「お母さん、死なないで」と大声で泣きながらお母さんを探しに放水路まで行きました。

しかしすでに命を絶った後でした。

八田与一が台湾の農業の発展のために作ったダムの、放水路に身を投げたのです。この時、外代樹夫人はまだ45歳という若さでした。

外代樹夫人が身を投げた放水路

地元の人々は、この二人を偲んで、夫婦一緒のお墓を建てました。

八田与一は日本よりも台湾での知名度のほうが高く、今でも評価されています。

命日の5月8日には毎年、慰霊祭が行われており、日本人も多く参加しています。

今年(2023)の慰霊祭
頼清徳副総統をはじめ慰霊祭に列席する台湾要人

このように日本統治時代の50年の間に、台湾の発展のために貢献した日本人がたくさんいます。

こうした理由から、台湾は世界で最も親日の国と言われるようになったのです。

執筆:徐啓祥(台湾人ガイド)