金. 9月 20th, 2024

(①から続く)

「大樹郷旧鉄橋」が建設された当時、台湾はすでに砂糖の生産量が世界1位でした。

製糖業は台湾の発展を支えた重要な産業ですが、とりわけ、台湾最南端の都市である屏東は、最も重要な砂糖生産地域でした。

砂糖などの物資の輸送は切実な問題でした。加えて、軍事的な目的からも輸送は喫緊の課題でした。

そこで台湾南部の重要都市である高雄から屏東まで鉄道を延長しようとしましたが、高雄と屏東の境界線となっている高屏渓は幅が千メートル以上もあったので、当時の技術で鉄橋を架けることは大変難しいと思われていました。

この困難な工事に取り組んだのが、静岡県出身の飯田豊二技師でした。台湾総督府鉄道部に所属していた飯田技師は、屏東線の責任者を務め、8年の年月を掛けて、「下淡水渓鉄橋」を完成させました。

1913年に完成したこの鉄橋は、全長1,526メートル 幅7.6メートル、橋脚は赤いれんが造りを主とし、川の水が衝突する水切り部位は厚い約47センチの花崗岩で被覆され、橋上部は24節のワーレントラスで構成されています。

花崗岩の橋脚とワーレントラス

飯田豊二技師は8年間この難しい鉄橋建設に取り組みましたが、鉄道が開通する前、過労で倒れ大正2年(1913年)6月10日に台南病院で死去しました。

享年40歳でした。

死後、打狗(今の高雄)保線事務所の小山三郎が資金を集めて、九曲堂駅付近に記念碑を設立し、遺体は九曲堂駅から北100メートルのところに埋葬されました。

飯田豊二技師の記念碑

台湾鉄道が1987年に新鉄橋を再建した後、台湾内務省は1997年に「大樹郷旧鉄橋」を台湾の唯一の国家級2級古蹟鉄道橋に認定しました。

大樹郷旧鉄橋(終わり)

執筆:徐啓祥(台湾人ガイド)