台湾で一番広い平野は、阿里山への入り口になっている嘉義と台湾の京都とも呼ばれている台南にまたがって広がっている嘉南平野です。
ここは、台湾の米どころとして知られています。
しかし、100年ぐらい前までは農業ができない場所でした。
なぜかというと、5月から9月にかけては雨の多い時期で、集中豪雨や台風のたびに洪水になり、反対に雨が降らない時期は水不足で土が乾いてしまい、農業をするには向いない場所でした。
農家の人たちは運を天に任せるような状態で、貧しい生活をしていました。
こうしたなか、ここに灌漑用の設備を作り、一年を通じて安定して水を供給できれば、豊かな水田になると確信した人がいました。
その人の名前は八田与一といいます。
彼は現在の石川県金沢市今町で生まれました。1910年に東京帝国大学土木科を卒業してから、すぐに台湾総督府土木課で働き、台湾北部の桃園大圳という灌漑用水の工事を担当しました。
工事を成功させたことから注目され、嘉南平野の灌漑工事の責任者に任命されました。
八田与一は、台南を訪問して一通り視察した後、工事の計画書を作りました。
曾文渓の支流の川で、台南の北を流れる官田溪という川の上流にある烏山頭という場所で川を堰き止めて大きなダムをつくり、平野の隅々まで水路を作って田んぼに水を引く、という壮大な計画でした。
農民は米がたくさん採れれば収入が増えると期待しましたが、予算の問題で、すぐに工事を始めることができず、大正9年(1920年)になってようやく工事が始まりました。
それから10年もの長い年月をかけて、昭和5年(1930年)に完成しました。
水路は全部で1万6,000キロメートルととても長く、しかも日本で一番長い灌漑用水である愛知用水の13倍もあります。
この水路と烏山頭ダムをまとめて、嘉南大圳(かなんたいしゅう)といいます。
圳は、日本ではあまり使わない漢字で「土へんに川」です。
八田与一のおかげで水路が完成してから、この地域で水に困ることはなくなりました。
烏山頭水庫と八田与一②に続く
執筆:徐啓祥(台湾人ガイド)