現在、台北周辺で1番人気のある観光スポットが九份です。
九份は、もともと家が九軒しかないのどかな農村でした。
買い物をするときはいつも「九軒分ください」と言っていたので、いつの間にか「九份」と呼ばれるよりになり、それが地名になったのです。
1889年から1891年の間、台北から基隆までの鉄道を通すため、八堵という町で基隆川に架ける鉄橋工事をしているとき、作業員が川の中から砂金を見つけました。
これによって基隆川にゴールドラッシュが始まり、砂金をとるために次から次へと九份や隣町の金瓜石に人がやってきました。そこで清の政府は砂金局という役所をつくり、手数料を払えば誰でも砂金をとることができるようにしました。
日本統治時代になると、九份で金をとる権利は、藤田伝三郎が経営する藤田組が管理するようになりました。藤田伝三郎は、ワシントンホテルなどを経営する藤田観光の前身の会社を作った人です。
この藤田の下で、砂金採集の台湾人作業員を集めていたのが、地元で警察と通訳の仕事を兼業していた顔雲年です。顔雲年と言われても、みなさんは誰のことか分からないと思いますが、この人のひ孫が「ハナミズキ」を歌った歌手の一青窈です。
顔雲年は、請負制を導入して人を集めました。彼の下には、多くの請負業者がいて、請負業者はさらに多くの作業員を雇っていました。
九份には多いときで3万人から4万人もの人が住んでいました。
彼らの夢は、「夜中3時は貧乏人、4時に金持ちになって、朝5時には豪邸を建てる」という言葉で表現されました。
たくさんの人が一攫千金を求めて、九份にやってきたので、日本政府は、金を運ぶための軽便鉄道や道路を次々と建設して、町はさらに発展しました。
九份は、小上海やリトル香港と呼ばれるようになりました。
(連載#2に続く)
執筆:徐啓祥(台湾人ガイド)